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第2章 ラジオ
- ラジオの夜明け
わが国で初めてラジオ放送が開始されたのは、東京放送局の本放送が大正14年7月で、大阪放送局は大正15年12月からであった。
当時の受信機は、レシーバ使用の鉱石式ラジオであったが、つづいて外国から、らっぱ拡声機のついた受信機の輸入が暫増した。この受信機は二、三日も使用すれば充電しなければ聞けないという電池式の不便なもので、当時価格は300円もした。
このような電池式受信機から発展して、この電池を電気(AC)に置き換えることに成功した。 昭和5年、わが国ではようやくラジオは時代のちょう児としてもてはやされ、その将来性を大いに期待されるようになったが、なにぶん部品その他は技術的にも不完全きわまるもので、一般にラジオは故障の起きるものだということが常識となっていた。
そのころ、松下電器の代理店からはラジオセットの製造販売を要望する声が日に日に強くなっていた。 そこで日ごろからラジオの国民性、将来性についての関心を寄せられていた現会長は、松下電器でラジオの製造販売を行うからには、ラジオについての知識や技術のない当時の電気店でも容易に販売できる、故障のないセットを作り出さなくてはならないという結論を得られた。 昭和6年にわが社では、実用的なセットの考案研究がなされた。 これがラジオ製造の発端である。
その後、現中尾副社長を中心とする10数名の研究部員の日夜たゆまざる研究の結果、3ヶ月後にまず理想に近いセットが完成された。
おりしも東京中央放送局でラジオセットの懸賞募集があったので、新設計の3球再生付きと固定再生付きのビリケン形セット2種を応募したところ、3球再生付きの方がみごと一等に当選した。
10月に入り、第七工場(現電熱器事業部)で当選したラジオのシャシを、8角形形スピーカボックスをかぶせた黒紫色のうるし塗りキャビネットに収め、「当選号」と名付けてナショナルラジオの本格生産が始まった。 9月ころまでに、一連のRシリーズが生産され、ラジオの普及を促進した。 当時は部品・はんだ・エナメル線など、特にLとCがきわめて不完全なため技術的苦労が多く、セットの品質の自主管理の必要上から、部品の自社生産が始められたのである。
工場も第七工場から門真新工場に移転して本格生産が開始され、このようにしてすばらしいラジオの夜明けの幕が開かれたのである。
- 戦前・戦中
- 戦前のラジオ黄金時代
昭和9年に入って研究開発に力を注いだ結果、数々の優秀なセットを世に送り出し、事業は順調のうちに進展し、ナショナルラジオの真価が認められるようになった。
中でももっともヒットしたセットとして、4球ペントード「R−48」があげられる。 このセットは当時としては相当高度な設計、デザインが生かされたもので、通算生産27万台で大ヒット商品となった。
ついで10年ころには、安価な普及セットとして業界のトップを切った国民型3球ペントード「K−1」、同じく標準型4球受信機「K−2」など、Kシリーズが誕生した。 11年にはコンソール型電蓄の発売を行い、また初のプラスチックラジオ3球ペントード「R−11」等が新しい需要を喚起し、6月切りの売り上げは前年6月切りに比し74%アップの驚異的な躍進を示した。 「R−11」の原型は小型で徹底的に合理化された「R−10」であって、これは当時22円という画期的な価格で日産400台もの大量生産を行った。 またプラスチックラジオは、今の松下電工が制作したマーツライトのキャビネットに納めたもので、わが国最初のプラスティックキャビネットとして当時のラジオ業界で賛辞を得たものであった。
次いで昭和12年頃より、大阪でも第2放送が開始され、聴取者の数もますます増加し、山間へき地でに聴取できるようにと遠距離受信機が研究開発され、同時に真空管も逐次改良され、高感度、高選択度のスーパーへテロダイン方式「6S−1」受信機が発表された。
この受信機は、現在の16形テレビのシャシぐらいの大きさで、中間周波トランスも大きなものを使っていた。 その後、逐次スーパーへテロダインシリーズが発表された。 このころになると、ラジオ技術も高度に進歩し、スーパーへテロダイン回路またはデザインや音質の面でもラジオ界が前進した時期であった。 工場の方も第一工場、第二工場となり、第一工場ではスーパーラジオを、第二工場ではその他のラジオを生産することとなり、第一工場ではコンベアシステムを初めて採用し、能率の向上をはかった。
昭和12年のナショナルラジオの生産台数は、実に111,000台という当時としては驚異的な数に上り、全国占有率も47%を確保した。
昭和13年4月には、松下無線(株)東京研究所を設置し研究開発の面にも盤石の構えを固め、ナショナルラジオの確個不動の地位を築きあげたのである。 その後も激しい競争の中にあって常に業界をリードし、昭和16年の軍需生産開始まで全国に送り続け、松下電器ラジオ事業の一大黄金時代を形成したのであった。
- 戦時中におけるラジオ
昭和14年には価格統制令、15年にはぜいたく品の禁止令などが発令され、世相は軍国一色となり、昭和16年には太平洋戦争に突入した。 このころ東京研究所は、松下無線(株)東京工場になり、陸軍に無線機を初納入したのであるが、民需品であるラジオの生産は材料の関係で日を追って低下しつつあった。 それでも昭和17年には月産3万台を数え、わが国ラジオの生産高の30%を占め、全国第1位を確保していた。
かくして漸次、軍需品生産に切り替えられ、ラジオの生産は同年設立の朝鮮松下無線、台湾松下無線、満州松下無線で生産されたが、戦争激化とともにその後空白状態となった。
- 戦後
- ラジオ生産の再開
昭和20年8月戦争は終結したが、日本の政治経済は全くまひ状態となり、国民は食を求めて混迷しているありさまであった。
しかしながら、松下電器ではいちはやく民需生産への転換が声明され、きびしい社会情勢の中にも、民需生産再開への力強い歩みを始めたのであった。
同年9月には、待望の受信機(並4球)生産開始で戦後のラジオ生産が始まり、また翌21年に夏には、終戦により短波受信が自由となったので、初めての高級3バンド8球オールウェーブ8A−1形が生産された。
- 特需ブームと民法の開始
昭和25年から26年にかけて、ラジオ業界は不況による経営不振から、中小メーカの倒産があい次いで起こったが、わが社では、民間放送の具体化などで一応需要の見通しがついたところで、普及型新スーパー受信機を発表した。
昭和26年6月に朝鮮動乱が勃発、この動乱による特需や民間放送開始とあいまって、スーパー受信機の需要が増加し、生産、販売ともにますます活況を呈し、セットの過大在庫は解消し、ナショナルラジオの品不足は全国的な現象となった。 12月には月産15,700台という当時としては画期的快記録を樹立し、高能率生産の実績を示したのであった。
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