三洋電機 『創業者・井植歳男物語』 よりの抜粋
第九章 ラジオで電機業界に参入


アマチュア製ラジオと対決

 50年(昭和25年)6月に勃発した朝鮮動乱は、発電ランプの生産に不可欠な材料であるニッケルが手に入らなくなるという思いがけない危機を三洋電機にもたらした。それをなんとか乗り切った歳男は、発電ランプの事業だけに頼っていてはいけないと思い、ラジオ事業への参入を決意した。

 当時、統計上のラジオ生産台数は年間41万台。しかし、この数字は市場に出回る実際の台数の40%に過ぎなかった。あとの60%は、アマチュアが部品を買って組み立てたヤミラジオが売られていたのである。その原因の一つは、ラジオにかけられていた30%という高率の物品税にあった。税金のために値段が高いメーカー製品が敬遠され、ヤミラジオの方が多く売れていた。

 「これでは国技館の大相撲が草相撲に負かされているようなものだ。草相撲の製品では輸出もできないから、国の経済に役立つどころではない」
 さっそく歳男は政府に現状を説明し、物品税の引き下げを働きかけるとともに、安くて性能の良いラジオの開発を弟の薫に指示した。
 当時のメーカー製5球スーパーラジオは、1万数千円で売られていた。アマチュアをおさえ、業界で後発の三洋電機が勝負するためには、何よりも1万円以下の価格であること、同時に性能・デザインでどこにも負けないことが求められた。

 「安くするには大量生産しかありません。年に10万台を計画しようと思います」
 薫は思い切った大量生産方式の採用を歳男に提案した。先発メーカーの生産計画は、1機種でせいぜい3,000台から5,000台という時代だった。
 「わかった。やるからには、新しいやり方で国民生活を豊かにするラジオにしよう」
 歳男は即座に決断した。



木の代わりにプラスチックを

 ラジオの開発は旧松下飛行機から買収した住道工場で始められた。試作品が完成すると、さっそく大阪の大丸百貨店の電器製品売り場に持ち込んで他社製品とデザインの比較検討を行った。

 「どやろ?」
 歳男は各社の製品の間に肩を並べて置かれた試作品の前に立つと、幹部たちを振り返った。ガヤガヤと感想が飛び交い、まずまずの出来ということに落ち着いた。しかし、他社の商品を圧倒するような画期的な新しさはなかった。

 デザインはともかく、最大の問題は原価だった。どう切りつめても1万円以下の価格で売ることは無理だった。これまでの三洋電機の主力商品である自転車用発電ランプは、輪界(自転車業界)の商品で、電機業界のものではなかった。電機業界に本格的に参入するには、ラジオをどうしてもヒットさせる必要があった。

 社長の歳男を囲んで、担当役員の薫、工場長の鈴木勇、設計主任の田村巧、製造主任の黒河力などが集まって新製品検討会をたびたび開いた。コストダウンの大きな障害はキャビネットにあった。当時は木製のキャビネットだったので、工程が多い上に手作り部分が多く、量産が困難だった。
 「木製に代わる材料はないんかいな。電機メーカーとしては初の製品や、世間をあっと言わせるような新しいものや…」
 「最近、アメリカからプラスチックという材料がはいっていますけど…」
 「そうかプラスチックでラジオのキャビがでけたら面白いな」
 設計主任の言葉にみんながうなずいた。
 「よっしゃ、プラスチックを急いで検討してんか」
 歳男は新しい材料の検討を指示した。



ラジオのお化け登場

ちょうどそのころ、日本でもビニール、プラスチックなどの石油化学製品が、衣料、生活用品に普及しはじめていた。プラスチックを初めて国産化したのは、積水化学工業だった。そこでプラスチック製キャビネットの生産を積水化学工業に依頼することになった。

 先方に相談すると「技術的にはできるがラジオの大きさのプラスチックを1度につくる成型機が日本にはない」という話だった。当時、国内で使っていた射出成型機で一番大型のもので16オンス、これで5球スーパーラジオのキャビネットを成型するには、2度押しという方法しかなかった。それではとても量産効果は望めなかった。
 「アメリカにはもっと大きな成型機があるんでっしゃろ」
 「そりゃ向こうはプラスチック工業の草分けですからね、32オンスの大型成型機があるそうです」
 「それなら、いっぺんに成型できまっしゃろか」
 「もちろんです」
 報告を聞いた歳男は、即座に「そいつを買おうやないか」と言ったが、結局、「自分とこの仕事に使う機械は、うちで買います」と積水化学が輸入することになった。
 待望の大型成型機が入ると、日本ではじめてのプラスチックキャビネットを使ったラジオの試作がはじまった。やってみると金型の技術面や材料面で多くの困難にぶつかった。なんとかキャビネットができあがってシャーシを組み込んだ。ところが長時間使用テストの途中でキャビネットが変形してしまった。真空管などから出る熱のせいだった。

 試行錯誤を重ねているうちに熱に強い熱硬化性樹脂が見つかり、量産をはじめたのは52年(昭和27年)の年が明けてからだった。3月にプラスチックラジオ1号機SS-52型の発売にこぎつけた。価格は8,950円。1万円以下という目標を見事に達成した。日本の5球スーパーで、はじめて1万円を切るという快挙だった。今までになかったプラスチックラジオという新しさと、だれもが手に入れやすい価格の両方を実現したラジオの発売によって、三洋電機は、電機業界への第一歩を踏み出したのである。

 プラスチックラジオの発売と同時に本格的な宣伝活動も開始した。その一つは宣伝カーを走らせることだった。宣伝カーは、トラックの荷台をプラスチックラジオの形にしたもので、当時としては斬新(ざんしん)なアイデアだった。その宣伝カーが大阪の町中を走りまわり、サンヨーから発売した新しいラジオの宣伝を繰り返した。「ラジオのお化けあらわる」と、新聞が大きく取り上げた。宣伝効果は満点だった。一方では、放送が始まったばかりの民間ラジオ局を使った宣伝活動もはじめた。「お笑い三洋亭」という娯楽番組を提供し、視聴者に三洋電機の名前を売り込んだ。

 ラジオは順調に売れた。その頃、歳男は、ラジオのことはすっかり忘れて新しい商品のとりこになっていた。