| 早川電気 (Sharp) 社史よりの抜粋 |
『国産ラジオ第一号』 運命の9月1日 1923年9月1日、突如関東一円に大震災が起こり、工場は一瞬のうちに灰燼に帰してしまいました。創業者自身も負傷し、妻と2人の子供を亡くすという不幸に見舞われたうえ、従業員の多くも罹災し、営々と築き上げてきた事業はついに閉鎖のやむなきに至ったのです。 大阪で再スタート 大震災で焼失したシャープペンシル工場の再興はならず、 早川創業者は従業員3人とともに大阪の地に再起をもとめました。 1924年(大正13年)9月、大阪・西田辺の現在の本社所在地 (当時、大阪府東成郡猿山村字田辺25番田)に早川金属工業研究所を創設し、 金属文具の製造から再スタートしました。 ラジオ時代の到来を直感 同年暮れ、心斎橋の石原時計店を訪問した早川創業者は、輸入されたばかりのアメリカ製鉱石ラジオ受信機を買い求めました。 当時、海外ではすでにラジオが実用化されており、日本でも大正14年にラジオ放送開始と発表されていましたが、受信機は外国からの輸入に頼るしかない状況でした。早川創業者は、これからはラジオの時代がくると直感、迷わずラジオ事業で再起を図ろうと決断したのです。 手探りでラジオを組み立て ラジオの原理はおろか電気の初歩も分からぬ人たちが、1台のモデルをもとに手探りで研究を始めました。 放送局が開局されていないため、モールス式の手動電鍵を使って試音を送り、 それを受信したラジオの音に歓声を上げながらの実験でした。 見事に電波をキャッチ こうして1925年(大正14年)4月、鉱石ラジオセットの組み立てに成功しました。記念すべき国産ラジオ受信機第1号の完成です。6月1日、JOBK(大阪NHK)が三越の仮放送所から最初の電波を流し(東京のJOAKは3月に初放送)、第1号の鉱石ラジオから明瞭な音声が聞こえたとき、全員肩を抱き合って喜び合いました。 ただちに量産へ 第1号ラジオはただちに生産に移され、セットは恐ろしいほどの勢いで売れていきました。 飛ぶように売れる アメリカで1920年(大正9年)にラジオ放送が始まったとき、大統領選挙の結果が新聞より早く人々の耳に届き、速報性の威力を強烈に印象づけました。日本でも国内外のできごとを瞬時に伝えるラジオが与えた衝撃は、今の私たちの想像以上のもので、発売とともにラジオは飛ぶように売れていきました。 第1号の鉱石ラジオセットの価格は3円50銭、ラジオ放送受信料は月額1円、聴取者は5,455世帯でした。これが3年後(昭和3年)には早くも、NHKラジオの契約者は50万人を突破しました。 まさに情報革命時代の到来です。 「シャープ」の銘を打つ セットは最初、単に「鉱石受信機」として販売、まもなく「シャープ」の銘を打ちました。 いくら作っても需要に追いつかず、すぐに7円50銭の最高機種まで4機種を揃え、月産1万組以上を生産しました。 シャープの名は“新しい放送情報時代の開拓者”としてたちまち全国に知れ渡っていきました。 ラジオ部品の輸出を開始 ラジオブームは一気に高まり、1925年(大正14年)7月に、初めての営業拠点として大阪市内に靱(うつぼ)営業所を開設しました。 1926年(大正15・昭和元年)には、ラジオ受信機にシャープダインと命名。東京にも出張所を開設したほか、中国、東南アジア、インド、南米など海外へもラジオ部品の輸出を始めました。 また、各地で販促のためラジオ見本市を開催。さらに中国の上海でも見本市を開催し、いずれも大盛況でした。 真空管ラジオ 1929年(昭和4年)、鉱石ラジオに替わる新しい交流式真空管ラジオを発売しました。 相次ぐ新製品の開発とともに、毎年、工場の増設や生産装置の改良による品質と効率の向上に努め、“ラジオはシャープ”の名を不動のものとしました。 |
参考資料 |
参考資料 |