「枯野」 随想

 「記紀」 には船の記事が何カ所かあるが、船名が書かれているのはそれぞれ一カ所だけである。 その船の名前は Karano
古事記では 「下巻・仁徳天皇」 に、 日本書紀では 「巻第十・応神天皇」 にその記事が書かれている。

 どちらの記事も「枯野」なのだが、船の名前に枯れ野とは不思議な気がする。 記の中の歌には「加良努」と表記されているので、漢字本来の意味とは関係ないのだろう。 この時代、漢字は借り物だから、発音を適当な字に当てはめたのだろうけれど、もっと適当な字はなかったのだろうか。 ねぇ、安萬呂さん。 
軽々と走ったので、「軽いのう」 なんちゃって...  それとも「カヌー」が語源だったりして...

 記事が豊富なのは古事記なので、下にその部分の読み下し文と原文を引用した。 定説では応神天皇の即位が西暦270年、仁徳天皇の即位が西暦313年なので、どちらにしても1700年ぐらい昔の話である。

 古事記によると、大和川ではないかと思われる川のほとりに生えていた大木を材料にして船を作ったとある。 木の高さが尋常ではない。 朝日に当たった木の影が淡路島にかかったというのだから。 この木を材料にして作った船とは、どのような船だったのだろうか。

 少なくともこの時代より100年ぐらい前に日本のどこかに存在した邪馬壹(臺)国は外洋航海に耐えて、大陸に渡れる船を持っていた。 だから、近畿大和王朝のこの船も木をくりぬいただけの丸木船なんかであるはずはない。

 想像するに、構造船ではあるが、キールまでは持っていない。 少なくともデッキのようなものはあった。 さらにブルワークで波の打ち込みを防ぎ、当然ながらラダーも備えていた。 風を利用するためのマストと帆も備えていた...はずなのだが、古墳時代の埴輪の船にはマストが見られない。 バイキングの船のように、必要なときだけマストを立てたのだろうか。

 このような船の埴輪は 東京国立博物館の資料室 で見ることができる。 リンクを張っておいたのでクリックしてみて下さい。

 興味を引かれるのはこの船の速度だ。 仁徳天皇の都 「難波の高津宮」 と淡路島の間を朝夕2回往復しているのである。 これは驚異的な船足だ。
 
 この時代、星をたよりの夜間航行は可能でも、暗闇での離岸着岸は相当危険を伴ったはずだ。 今でも難しいのだから。 従って、このコースの航行可能時間は日の出から日没までだったろう。 ごくおおざっぱに、日の出から日没までを12時間とする。 (もちろん季節によって変わるが、とりあえず無視する)  この時間で2往復するのだから、片道に費やせる時間は3時間しかない。

 難波から淡路島までの距離も大ざっぱに20マイルとすると、20割る3イコール約6.7ノットだ。 どうすればこのスピードが出せたのか。

 パワーボート派のあなたなら 「軽いのう」 かもしれないが、この時代は人力と風力だけだ。 ベテランのヨットマンのあなたでも、堺から淡路島まで一日に2往復はかなりきつい。 6.7ノットですよ。 40フィートクラスのセーリングクルーザーで機帆走なら可能だろうが、風だけなら、まずできないと言っていいだろう。 風なんて常に変わる。 キャプテン E.T. は、日本の天気は15分で変わると言った。 至言である。

 人力による櫨櫂だろうか。 権力にものをいわせて集めたこぎ手を、叱咤激励したのだろうか。 しかし、人力のみで6.7ノットのスピードを3時間も持続できるのか???  私には不可能に思える。

 古代のロマンに夢はつきない。        <了>

2000/1/11 B.L.

<引用> (読み下し文)

古事記 下つ巻  仁徳天皇

枯野(からの)という船

この御代1に、免寸河2の西に一つの高樹ありき。
その樹の影、旦(あさ)日に當たれば、淡路島に逮(お)よび、夕日に當たれば、高安山3(たかやすやま)を越えき。 
故、この樹を切りて船を作りしに、甚(いと)捷(はや)く行く船なりき。 
時にその船を號(なづ)けて枯野(からの)と謂ひき。 
故、この船をもちて旦夕(あさゆう)淡路島の寒泉(しみづ)を酌(く)みて、大御水4(おおみもの)献(たてまつり)りき。
この船、破(や)れ壊(こぼ)れて塩を焼き、その焼け遺(のこ)りし木を取りて琴に作りしに、その音七里(ななさと)に響(とよ)みき。
ここに歌ひけらく。

 枯野(からの)を 塩5に焼き 其(し)が餘(あま)り 琴に作り かき弾(ひ)くや 由良の門6(と)の
 門中(となか)の海石7(いくり)に 觸8(ふ)れ立つ 浸漬9(なづ)の木の さやさや10

とうたいき。 こは志都(しづ)歌の歌返しなり。
この天皇の御年、八十三歳(やそぢまりみとせ)。 御陵は毛受11(もず)の耳原(みみはら)にあり。




<注釈>

  1. この御代 ・・・ 仁徳天皇の御代 西暦313−399年
  2. 免寸河 ・・・・ 所在不明。 読みも不明。 可能性としては大和川かも...
  3. 高安山 ・・・・ 大阪府八尾市 信貴生駒山系 487.5m
  4. 大御水 ・・・・ 天皇の飲料水
  5. 塩に焼き ・・・ 塩を作るための燃料にして焼いた。
  6. 由良の門 ・・・ 紀淡海峡 (友が島水道)
  7. 海石 ・・・・・・ 岩礁
  8. 触れ立つ ・・・ 波に触れて生えている。
  9. 浸漬の木 ・・・ 海水に浸っている海草のように。
  10. さやさや ・・・・ 琴の音がさやかである。
  11. 毛受の耳原 ・・・ 大阪府堺市百舌 大山(だいせん)古墳 (伝仁徳天皇陵古墳)



<引用> (原文)

古事記 下巻  大雀命

此之御世 免寸河之西 有一高樹 其樹之影 當旦日者 逮淡道嶋 當夕日者 越高安山

故 切是樹以作船 甚捷行之船也 時號其船謂枯野 故 以是船旦夕酌淡道嶋之寒泉 献大御水也

玄船破壊以焼鹽 取其焼遺木作琴 其音響七里 爾歌曰

  加良努哀 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 加岐比久夜 由良能斗能 

  斗那加能伊久理爾 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜 

此者志都歌之歌返也

此天皇御年 捌拾参歳 御陵在毛受之耳原也



「人間五十年」   「枯野」